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2009年10月13日火曜日

スタート・基本・原点に立ちもどって

書き出すと長くなりそうで,動けなくなりそうなのだが,自分へ言い聞かせるためにも,要点のみ記載しておく。

十年一昔とはよく言ったもので,また,一回り(干支=十二年)という区切りはよく出来たもので,前にもつぶやいたが,2つの学会(障害学会・日本社会福祉学会)を眺めていて,「なんだか,ぐるっと一回りしてきたなぁ」という印象をますます強く感じた。特に,社会福祉学会。

基本的に,私は,モノゴトはシンプルに考える方が良いと思っている。しかし,混線させてはいけない。
現実や,いわゆる”現場”が複雑で混沌としているのは,当然のことである。だからこそ,”分厚い”記述を目指すというのは,記録を残す意味でも否定はしないし,大事なことだと思う。

が,一方,現実は複雑で混沌としているからこそ,何かを見通すための”手がかり”や”柱”が必要。
スマートにいえば,”概念”であったり”分析枠組み”ということになる。
もちろん,これらの”手がかり”は,「何か」を見たい・知りたい・理解したいという特定の目的があって使うモノである以上,万能ではない。

ということを前置きとした上で。

改めて,「自立生活」や「当事者」という語が問われているなぁと。
実は,実際上の問題としても,ちょっとあって,う~む(ー"ー)・・・という事態があるのだが,学会でも,関連した報告がいくつかあるのを見ると,これはもう,しっかり考えろという天の声(?)かな,と。

なのだが。
実のところ,そんなに深刻に”考え”過ぎることがちょっと違っていて,”モノゴトはシンプルに”,基本に立ち戻ればいいんじゃないかい,と。

「自立生活」は,日本の障害者運動の文脈でも,輸入物に頼らずに使われてきた,と,認識しているが,輸入語としては,"Independent Living"である。「自立」ではなく「自律」だ,という議論は前からあるわけだが,単純素朴に考えれば,Independentって,”独立”だよなぁと。独立って,案外,良いのじゃないかい,と,最近,ふと思う。
また,「自律」とも関連して,「自己決定」もよく重視される語。なのだが。障害当事者が「自己決定」の旗を掲げるのは,そりゃそうだろうと納得だが,今のところ障害当事者ではない(たぶん)自分は,用語の定義としては,「自立生活」において「自己決定」を前面に出したことがない(ハズ)。代わりに必ず引用しているのは,次の文(他の人はそれほど重視しない印象を受ける)。

人の手助けを借りて15分で衣服を着、仕事に出かける等社会参加できる方が、自分で衣服を着るのに2時間かかるために家にいる他はない状態より自立した生活である。

思えば,この定義を読んで衝撃を受け,納得してから道を踏み外し・・・じゃなく(^^ゞ,飽きずに(ちょいと疲れることは,しばしばあるが)取り組むテーマと魅力的な多くの人達に巡り合えたことは,幸運というべきなのでしょう。

ちょっと話はズレたが。
「自己決定」は,とりわけ,現実・実践の場で重要であり,ややこしく悩ましいことであるのは,重々,承知している。しかし,概念を構成する要素として,どう扱うのかは,慎重であるべき。高橋修流に言えば,「施設や家族と暮らしていても,自分で決めているから『自立生活』なのよ,って,どうなのよ。味噌汁で顔洗って出直して来いって話よ」。
※記憶で書いているので正確な引用ではない。また,乱暴な言い方で,前後,注釈が必要な言い方なのだが,まぁ,ご容赦を。

そして,「当事者」。
上位概念として使う場合の「当事者」は,適用できるカテゴリー(?)・集団・人は,いろいろあっていい。
だが。
「○×の当事者」と,特定のコトについて述べる場合は,一義的に決まるものだと強調したい。シンプルに考えて良いのだが,混線・混同させてはイカン!のだ。

「英語で『当事者』とはどう言うのか」問題については,超苦手領域なので,どなたか,よろしく<m(_ _)m>

そうそう。”思いつき”のうちに,これも記しておきます。
今年度から始まった,社会福祉学会の特定課題セッション。その場を使って,「当事者をめぐって」とかなんとか,設定すると面白そうだと思いますが,どうでしょう。

・・・やはり,長くなってしまった。ここから先は,ちゃんと詰めて書かないといけないな・・・

2009年9月24日木曜日

編集作業

下書きは2009.8.19.に書いていたみたいです。
なんで下書きのままにしていたのか,我ながら謎。
研究会の経過はまるでわからないにも関わらず,報告書の最終まとめの段階でお手伝いをした案件があり。これが,つい,まとめ・打合せが脱線話(?)で盛り上がったりもしたこともあって,当初の予定外のことで食い込んでいたのだな。
とても精力的な集まり・研究会であったことは,まとめの作業を通して,よくわかりましたが,それを形にするのは,また,別の”技術”が必要なのだと,つくづく思いました。

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言いたい(書きたい)ことや思い・想い,素材はあれこれたくさんあるのに,形にする段階で迷走している報告書の取りまとめには定評(?)のあるワタクシですが。さすがに,最近は,自分が当初から関わっているものについては,最初にある程度の方向づけをしておいたり,あるいは,中間または取りまとめ時期の初期の段階で,一度,構成・組立のガラガラポンをしてから,報告書のまとめに着手するので,土壇場になって頭を抱えることはあまりなく。
流れの全体・前段に参加していない報告のまとめを手伝うにあたって,久々に,文章などをとりあえず全部を紙にアウトプットして,はさみ・カッター,クリップ,ホチキス・テープ,マーカー,古封筒等々の「編集グッズ」をとりそろえ,「・・・え~っと,この言葉の意味は具体的には?」「ここから一番言いたいこと,この結果の”ウリ”は何なんでしょう?」「”調査”は調査票の段階で7~9割は(結果が)決まっちゃうんですよねぇ・・・」等々と確認しつつ,机・テーブルの上で並び替えをしていく作業をしました。なんだか妙に懐かしさを感じたりして。

やっていることのプロセスは,ほんと,変わりがないのだなぁと,文章・論文をしっかり構成することや,分析概念の使い方を厳しく躾けられたことは,誠にありがたい財産だと,しみじみ思うのでした。

2009年7月27日月曜日

ぐるっと回って

雑誌論文やら,新刊書籍やらを眺めていると,なんか,ぐるっと一回りしてきたなぁという感慨をもつ今日この頃。
修士論文の準備で,あれこれヒアリングに回っていたときに(もう一昔以上前になっちゃいましたが(^^ゞ ),一世代(以上)上の方々から,ビミョーな表情をされたことがしばしばあったが,今度は,こちらがビミョーな気分になる。う~む。
う~む・・・ということの半分(以上)は,自分の不徳の致すところで,自分がアウトプットをちゃんと目立つように(?)orわかりやすく出していないため,むむぅ~となってしまうわけで。
良くも悪くも,修士論文で,かなり納得する結論に至ってしまって(投稿論文では,諸々,配慮して控えめなトーンにしておいたのだが),その分析は大枠としては,ますます,そうだよなぁと思ってしまうのは,いいんだか,悪いんだか。
・・・ホント,整理整頓をしないと。

2009年6月29日月曜日

頼りになる準拠集団

6月27日(土)は,地元(新潟)での面白そうなイベント2件や(昨年度までの)業務関連の研究会1件も1)パスし,”予定は先約優先原則”・・・だけではなく,やはり自分の中では優先順位が高いが故に,毎度おなじみ最終新幹線で帰るハメになろうとも,参加をしてしまうのが福祉理論フォーラム(セミクローズドな研究会)。
今回も脳に良い刺激を得ることができ(特に報告者の若い人たちから…いや,まだまだ私も”若手”と思っていますが…),また,楽しいお酒を呑むことができて,とてもリフレッシュして(脳は疲れたけど)越後の国に帰ってくることができました。

つくづく,いくら社会科学系と言えども,研究活動というのは,個人だけでできるものではなく,良質な準拠集団2)が必要なのだと思う。ありがたいことです。

自分自身のチェックとしては,思考回路のギアチェンジが,少し回転しはじめたかな,と。”研究モード”の思考回路にギアが入り始めた感じがして,よい3ヶ月点検になりました。

・・・あとは,研究会に行く度に,報告・投稿の”義務”を果たさず怒られてしまうので,ちゃんとギアチェンジをして,きっちり”務め”を果たした上で,より美味しいお酒を呑めるようにしないといけませんね(^^ゞ
まずは,”ギアチェンジ”自体に今年度は集中しようと思います。

1) 勘違いしてました。こっちの研究会は今週末だった。・・・ま,別の研修会と重なっていて,どっちにしろパスなのだが(2009.6.30.追記)
2) 準拠集団は,社会学の用語だと思っていましたが(それも正しいのですが→),念のため,ググってみたら(便利な世の中になったものです),マーケティング用語としても使うのですね(例えば,これ)。なるほど。

2009年3月26日木曜日

ちょっと(かなり)改善

我ながら,相当,切羽詰っているのですが。
なぁ~んとなく,なんとかなるんじゃないの?という(開き直りというか楽観的というか)データ処理は,”今年度の”目標レベルを,早々に低くしたこともあって,もうこれ以上遅くはできないが,でもまぁ,なんとか,すべりこみセーフか・・・という感じ?
(・・・これは,そこそこ頭を使いますが,所詮,数式の世界ですから,頭を抱え込むことなく,やれば終わる。なんて気分が楽。)

ほぉ~ら,なんとかなりそうじゃん!というのは(現段階では,なんとかなっていないのですけど(^^ゞ ),
「めんどーくさいんじゃい」という環境・状況を改善したから。
仕事環境は,大切です。
でも,改善したと思ったら・・・に続く文章は,後日。

”めんどーくさいんじゃい”とぼやいていた一つは,狙い通り,SPSSのオプションで解決。やたら複数回答にしてしまったり,同じ選択肢を選ばせる設問をわりと使うので,これは,便利。もともと,SPSSがWindowsで使えるようになってから,事実上,プログラムを書かなくても良くなったので,”なんちゃって調査屋”としては,まことに便利な世の中に感謝していたのだが,ますます,便利になったものだ。
どうりで,さくさく終わったハズだ。
・・・ちょっと懸念ないわけではないが,今は,あっちへ置こうっと。

いや,待て。でも,
このソフトも××になっても,使えるように手配しないといかんのか。手配するのに△△は使えるのか?
・・・あぁ~,もう,めんどーくさいんじゃい(続行)。

秋の陣

このドタンバになって,久々に(オイオイ)統計ソフトSPSSを走らせていたら,計算式はあっているハズなのに,結果がおかしい・・・無駄なあがきをしました。単純に,新たに作った変数を一度,削除して,改めて実行させたら,ちゃんとした結果になりました。なぁ~んだ(そうだよなぁ,どう見ても,計算式はあっているもの)。

ということで。
※お楽しみネタ系つぶやきが続いているのは,暇だから・余裕があるからではなく,うっき~!!な状態の現実逃避とご理解ください(リピート)

ここまできたら,もう,恒例になりそうですね,ゲキ×シネ
そうですか,当地は,ゲキ×シネ『五右衛門ロック』「秋の陣」ですか。
楽しみ,楽しみ。
・・・って,どんだけ先だよっ。

2009年2月27日金曜日

十年ひと昔

前は,ピンとこなかったんですけど。
この言葉を,しみじみとつぶやく程度には,年取ったのかな,と。

十年ひと昔といいますが。
そうですか…高橋修さんが亡くなってから,今日(2009.2.27.)で十年かぁ。

私には,直接,ご指導いただた恩師・師匠が3人おりまして,そのお一人が高橋修さん。まぁ,恩師というか・・・ボス?(笑)。
その恩義は,今,たっぷり,かえしておりますので(…本務がややおそろかになるくらい),
千の風になって,見守ってくれないだろうか。
なんだか,さみしがって,草葉の蔭で暴れているように思えてならない今日この頃。(←と,ぼやいていたら,一部にウケたのですけどね(^^ゞ )

2009年1月16日金曜日

おめでとうございます

直木賞受賞,天童荒太『悼む人』,おめでとうございます!
当ブログに書いた記事はこちら

受賞おめでとうございます,といえば。
ここでとりあげた『社会福祉学の<科学>性』は,2008年度日本社会福祉学会奨励賞を,
こっちでとりあげた『障害とは何か』は,平成19年度損保ジャパン記念財団賞を,
受賞されておられます。

いずれも誠実さを感じさせる力作で,社会的評価が伴うと,ヒトゴトながら,嬉しいものです。

2008年12月2日火曜日

ばかにできない日常業務

今さらですが,さすがに,いい加減,なんとかせねば,と,記録様式を作成しております。
一時期,記録やデータベースに凝ったことがあって,機会あればとりくみたい課題でもあった,「実績記録」。
「実践記録」じゃなく,「実績記録」としているのは,誤記ではなく,まずは,数値データとして,日々の業務実践データを積み上げることで,見えてくることがあるんじゃないか,という話しです。

しかし。

いやぁ~,切羽詰って活用しようとすると,予想以上に,様式や記録の工夫が必要なことが,つくづくわかります。
これまた,今さらながら,最近,何か困ると『新版 ソーシャルワークの業務マニュアル―実践に役立つエッセンスとノウハウ』(旧版も持っていますが;というか,いただいたのか)を参照するハメに。
いやぁ~,このワタクシがそんな事態になるとは,編著者の同期や後輩(人生の大先輩)も,苦笑いしていることでしょう。

記録に関していうと。
単位を,人(数)にするのか,件にするのかで,データの性質が異なってくる,というのは,凝っていた時期から,よ~ぉく,わかっていたことで。
例えば,利用者1人だとしても,週に3回電話がくる(かけるのも入るのか?)と,相談人数は1人ですが,相談件数は3件になります。
これが,ヘルパー派遣になると,さらに,利用者・ヘルパー・件数と,関わる”変数”が増えるので,一体何をみるのかで,ずいぶん,違った印象になるわけです。
・・・といったことをベースに,某CILの極めて特色のある介助派遣の請求データベースを組んだことがあって(ソフト「桐」を使っているためプログラムを書いたわけではないですが),コーディネーター他に大感謝された,という経験があってね(その前段に,移送サービスのデータベースを作り,それ以前はPC嫌いだったコーディネータが一挙にIT化に走ったという逸話がある;それに比べれば,実習データベースは,基本の単位がややこしくないので,かわいいモンでした)。
あの時,とらばーゆしていれば(ん?死語か),業務ソフトで儲けることができたかも!
・・・じゃなくて,あの時のデータをがっちり入手していれば,相当,面白い分析ができたのに!(今でも,師匠に怒られていますが,その後,当該組織は大きな組織変更があったり,そこだけじゃなくとも,PCの入れ替えがあったり等々で,すっかり,あきらめてます・・・)。

でも,あれは,直接,現場の仕事をしてなかったから,できたことだと,つくづく思うのでした(ハイ,言い訳です・・・)。

なので,まぁ,記録様式を整える際の,ポイントとなりそうな点は,混乱しない自信があったのだが。
だがしかし。
”現場”というのは,つくづく,奥が深い(自分の認識が甘かっただけか?)。
「日報」に関しては,相談業務を中心におくべきか,ワーカー(=自分)の業務・動きをベースにするかで,なんだか色合いが違うぞ・・・と,気づき,しばし,考慮中。
というのも,上述の本の「日報」は,確かに日々記入しやすいのですが,相談業務が中心なので,関連業務が入りづらい。それは,ちょっと業務実態を反映していないよなぁ,と。
ま,この手の様式は,凝りすぎると良くない,というのも先刻承知なので,本来の意味で,好い加減なところで作成して,”改善”していくことにします。






2008年9月23日火曜日

めんどーくさいんじゃい

年中,引越し・異動をしている気がしてならないのですが,”本来”構えるべき部屋と違うところに,とりあえず陣取ってしまい,またまた移動しないといかんのです。

なのですが。
綱渡り生活からなかなか脱出できず,場所の確保も中途半端なまま,調査票の格闘に突入してしまったため。
しらみつぶしにデータクリーニングをしているものの,いちいち,調査票原本を,一つ下の階にとりにいくハメに1)・・・
いやね。そりゃ,あやしいものは,リストアップして,まとめて作業はしているのですが,念のため確認しながら作業を進めていると,ちらちら,出てくるわけですよ,”ありゃ,これ,入力ミスだわ。”が。それをつぶしているのだから,それ自体は,いいんだけど。
(自分の責任じゃない範囲で)場所の整備ができないと,
めんどーくさいんじゃい!

また,前々から,こぉ~れぇ~を,もうちっと簡単にSPSSで集計結果を出せないのか,と思っていた事柄は,どうもオプションで購入しないといけないことが判明2)
あー,だったら,職場用の新バージョンを購入する際,一緒に頼んでおけばよかったな。
・・・そーなのです。異動=いじるPCが変わるってのは,
なにかと,めんどーくさいんじゃい!3)
所有の異なるPCで,今後のことも考えて,新規でSPSSの購入手配をしているのですが,待っているモノに限って,恐れていた”大学構内,荷物がぐるぐる回されているぞ事態”に陥っており。
先週末に届いていたらしいのだが(T_T)

まぁ,どれも,段取りが悪いから,わたわたするわけですが。
・・・でも,自分の責任・裁量では,どうにもならない面もあるわけで。
あーもー,めんどー!!

1) しかし,H大のときは,普段,いる場所が1階で研究室が4階だったし,この建物は,夜分でも人がいたり,センサーで明かりがつくので暗いよぉ~ということがないので,マシな状態になったとも言える。もっとも,H大の時は,研究室に本棚とキャビネットがバッチリあったので,書庫・資料庫としての機能は,しっかり果たされていた。どっちもどっち。
2) 同じ選択肢を使う設問が並び,設問間での回答の比較をしたり,横棒グラフにしたりするとき,バラバラに出てくる度数分布を,合体させることはできないものか,と。複数回答(マルチクエッション)の場合も,以下同文。そりゃ,複数回答は避けるのが,教科書的にはよろしいことは,重々承知しているのだが(実際,面倒な目にあうので),現実・実際的な面から,そういうわけにもいかんのです。で,大抵,切羽詰って,わたわた作業することになり,あーもーエクセルで(ちまちま)貼り付けるぅ~!,という事態に陥っていた(あやしい機能は試してみるものの)。
3) まぁ,ワタクシは,メールソフトがPC依存ではないので,その分,ずいぶん,手間を省いているとは思いますが,SPSSのようなソフトは,もう,どうにもこうにもなりませんから。

2008年9月10日水曜日

こう,堂々と応えられても・・・

自転車操業の突貫工事でのお仕事が続いております。

急ぎ実施し,急ぎ入力作業の準備をし,急遽,(単純)集計を出さねばいけない「新潟市障がい者の情報技術(IT)に関するニーズ調査」1)ですが。
やはり基礎工程は略しちゃいかん(簡易にはするが)と,ガーっとコーディングをしていると。
まだ7分の1くらいしか終えていないのに,収入の中で「障害年金」に○がついているにも関わらず,一年間の収入が「なし」になっているのが,2~3発覚2)。しかも,そういうのに限って,記入者が親だったりする。

問い合わせ先が,市の障がい福祉課になっているアンケート調査で,こう,堂々と,記入されてしまうとは,どうしたものなのでしょうか?

といったことを,ブログに書くのも,研究倫理上,いかがな面もあろうかと思いますが,個人は特定されませんので,雑感・メモとして,書かずにはいられませんでした。

1) 微妙に,表題が違っているような,そうでもないような気がしないでもない。
2) しかし,もちろん,「量的調査」なので,論理エラーをつぶすために,他の設問の状況から判断して,年金の年額相当の金額をデータとして取りますが。

2008年8月27日水曜日

崩れてきたな

ぼやきと、お楽しみネタばかりも何ですし、ちょうど、「めざましテレビ」で、解説ニュースをしてたので。

後期高齢者医療制度に関する騒動は、ある程度、想定内のことでしたが(問題が深刻ではない、というわけではないので、その辺、誤解なきよう)。
数日前に流れた、西濃運輸の健保組合が解散して、政府管掌健康保険(政管健保)へ移るというニュースは、衝撃的でした。
財政調整機能が崩れるじゃん。いよいよ、企業福祉は、成り立たなくなってきますね。企業が持っていた(と思われる)日本の中間組織の良さが、崩れ去っていく動きは、もう、止まらないのかなぁ1)
こういった動きが続くようなら、社会保障制度は、もう、本当の意味で一本化していくしかないのではないかと。財源を社会保険で続行するのか、税金主体にするのかは、悩ましい問題ではありますが。

・・・いかん、もう、出かけないと。

1) 一通り、用事を済ませてから出かけることにしたので、ちょいと補足。
なんだか、のん気な他人事のような書き方になっていますが、社会保障については、自分自身の状況としても、切実な問題ではある、という、現実的な話が一つ。
もう一つ、社会政策の議論としては。個人的な価値観・価値判断としては、年金・医療などの(日本で言うところの)社会保障は、(勤務先を経由しないで)個人アカウントにすべきと思ってはいる(税金でやるのか、社会保険でやるのかは、微妙)。その仕組みとセットで、ベーシックインカム(基本所得)制度があれば、働き方が自由になるのになぁと、ホントに思っています。
とはいえ、歴史的経過や、人間社会の集団特性というものがあるので、現行制度も、よく考えられた仕組みだよなぁと、感心してもいるわけです。
が、社員の標準報酬をごまかして、企業負担を少なくしていた、という”不正”は、”不正”だからニュースになるわけで、そういったレベルではなく、そもそも、健保組合から政管に移行してしまおうという、合法的な、しかし、”共助”の精神を企業側がかなぐり捨てるかのような動きというのは、社会保障制度の根幹を揺るがすもの、ひいては、日本社会の変化(大げさに言えば、崩壊)も、ここまできたか・・・と。
・・・”あやしい人”のワタクシですが、たまには、本来的に専門領域(の割には勉強を、相当、怠けていますが)の社会政策の話をしてみました。

2008年8月4日月曜日

目的・対象と実践・具体化レベルが異なると

今まで、いくつか、”なんちゃって”調査をしてきたワタクシですが、今年もまた調査票をつくっております。
今回は! 少々しっかりとできそうなのですが1)、だからこそ、研究的に興味深いことに目がむいたりして。久々に、調査法の文献やら、なにやら、引っ張り出している

個別援助(あるいはケアマネジメント)のアセスメントにおけるエンパワメント2)、ストレングス視点のアセスメントは、お題目ではなく(ココ、大事)重要である!と、認識しているのですが。
IT関連の支援技術・機器に関連させて、しかも、自記式アンケート票に落とそうとすると、もう、動作について「できる/できない」で、設問をつくらざるを得ないのである。個人的には、ものすごく、違和感があるのだが。

一つには、”聞き方”の問題。アセスメントでは、双方向のコミュニケーションがあるのと、とっかりとしては、評価する(記入する)のは、援助者であるのに対し、アンケート票は、ともかく文を読むだけでわかるようにしないといけないし、選択肢もあいまいなことでは困るのである。
といった、形式上の制約は、まぁ、しゃあないなぁ、と。
(もうちょっと、つっこんで考察することもできる問題ではあるが、略。)

もう一つは、よくも悪くも、支援機器は、身体のある部分を補うものだということが、改めて、痛感。
私は、お題目ではなく(ココ、大事)、「人の手助けを借りて15分で衣服を着、仕事に出かける等社会参加できる方が、自分で衣服を着るのに2時間かかるために家にいる他はない状態より自立した生活である。」という、”自立観”を提示した自立生活運動の信奉者なので、
・援助があったほうが楽にできる、
とか、
・動作全体に介助が必要
といった、できる/できない、ではなく、介助の必要度を把握するような選択肢を好んで使うのですが、どうも、支援技術・機器から設問を組み立てると、できる/できない、に、なっちゃうんですよね。
(もうちょい、工夫の余地はあるかも、と、つらつら、再度、考え始めておりますが。)
なぁ~んでかなぁと、思ったら、支援技術・機器からみると、やはり、ターゲットになる動作が細かいのですよ。そこだけみると、こりゃ、個別モデルにならざるを得ない。

こんなことを、ふと、考える余地があるのは、なんか、ちょっと、研究者っぽいですよね。

・・・まぁ、バタバタはいつもの如し、で、7月中に出来てるハズの調査票が・・・。
いやまぁ、作業が進んでいないのに、ホイホイ、出張入れちゃったり、わかっちゃいるけど、やっぱり講義があるうちは、それに結構時間をとられるんだよなぁ・・・というのは、ハイ、言い訳でございます。

1) じゃあ、今までのは、なんだったんだ、という声もあろうかと思いますが。私的には、純粋(?)な研究目的というよりも、いや、もちろん、やるからには、調査設計はちゃんとしますが(一応、シロートとは一味違う技の見せ所でもあるので)、諸々の事情の中での”落とし所”をどうするのかに力点があったように思い。とはいえ、扱う領域の性質を鑑みて、”これでいいのだ!!”(合掌)、とも思ってはいるのですが。

2) この件に関しては、ホント、いずれ、きっちり、落とし前をつけねばならん(と、言い始めて、早10年近く・・・)。

2008年6月11日水曜日

見えないものをみる力

「私は自分では、アメリカンスタンダードとはどういうものかということを体得できている人間だという自負があったが、君の話を聞いていると、自分の甘さを今さらながら、嫌と言うほど思い知らされるよ」
「いえ、堀さん、これはアメリカンスタンダードなんて話じゃないですよ。船場の商いでも、これぐらいのことはします。ただ、我々は、経済成長という幻想の中で、頭を使うことを忘れたために、商いの基本を失っただけです」
(文庫版『ハゲタカ』下,p.64)


昨日(6/10)、帰り際に、いささか、立腹モードになってしまったため、精神衛生上、こりゃ、いかんと、ほんぽーとによって、『現代小説』に連載中の「レッドゾーン」=「ハゲタカ」の続編の最新号を読みにいっちゃいました(ホントは、貸出可になるまで、待つつもりだったのだが)。

ま、いずれは、このネタ、書こうと思ってはいたので。

文頭の引用は、「ハゲタカ」第1作目からの引用です。どういう流れなのかは、タイトルにも関連するので、注1)にゆずるとして。
上記の引用では、「船場の商いでも・・・」というところがポイントね。つまり、例えば、個別面接の技法だとか、仕事の段取りだとか、まぁ、いろいろ理屈はあるわけですが、結構、昔からあった”基本”が大事なんだ、ということ。

で。この記事のタイトル「見えないものをみる力」については、以下。

 鷲津は、窓際に立ち、眼下に広がる浜離宮を見下ろしていた。
 昼下がりの平日の庭園は、人もまばらだった。この庭園を造った人間は、いったいどうやってこの庭を俯瞰して見たのだろうかと考えていた。それぐらい庭全体にバランスがあった。しかし、このバランスは、高所から見ない限りなかなか分からないものだ。
 かつて、この国の人達にも、見えないものを見通す洞察力や眼力があったのだ。そんな力をいつからかなぐり捨ててしまったのだろうか。
(文庫版『ハゲタカ』下,pp.77-78)


そう、研究も、実践・プロジェクト進行上も、(そこにあるのだけれども表面上は)「見えないものを見る力」は、つくづく、大事で、その力をつけたいものだと思うのです。
で、「見えないものを見る力」は、知識や分析力もさることながら、洞察力・想像力が大事で。
後者は、いろんなフィクションにふれることが大切よね、と。
(決して、映画館に通う時間を捻出するための屁理屈、あるいは、言い訳ではない。ハズ。)

といったように、なんだか、最近、ヘタなノウハウ本やら、ろくでもない薀蓄書(テキスト、学術書、含む)よりも、良質なフィクションの方が、よっぽど、得るものが大きいと思うのでした(もちろん、良質な書物は得るもの多大)。
この前の記事にあげた、『新選組!』とかね(ま、これは、歴史モノなので、完全フィクションじゃないけどさ)。

なぜかといえば、人間や社会が、洞察力豊かに描かれているから。

ということで、授業の持ちネタとして定番「振り返れば奴がいる」第4回を使っているのですが、最近、DVDが出たらしく。ほ、欲しい・・・

「ハゲタカ」も昨年(2007年)MyベストTVドラマ、なのですが(と力説して、何故か、兄弟子から冷ややかな視線を受けましたが)、原作小説版も、ちょいと設定が違うものの、もう、面白くてね。







語りはじめるとキリがないので、とりあえず、続編(おそらく最終?)「レッドゾーン」につながりそうな、そして、この記事に関連するところだけでもあげると・・・⇒続きを読む...
「今となっては日本が世界に誇る数少ない宝の一つ、金型技術の一流どころを、我々はほぼ手中に収めた。さらに、将来の自動車産業を左右しそうな先端技術を誇る部品会社も手に入れた。経営を我々に委ねることで、技術力の向上と後継者の育成に専念できると知った彼らが、見る見る生気を取り戻したのも承知の通りだ。そして次の段階で何が起きるか」
「トヨハシも日産もみな我々に頭を下げて部品を買うことになる」
前島がそう答え、全員が歓声を上げた。鷲津は彼女を指さして軽く手を叩いた。
「前島、そんなレベルじゃない。日本のメーカーがこぞって我々の技術にひれ伏すんだ。そして、連中に思い知らせてやるんだよ。ものづくりの原点を忘れたらどうなるのかをな」
(『ハゲタカⅡ』下、p.28)

(ちょっと解説)
ジャパン・パーツ:プラットファーム方式、つまり、同じ業種の複数の会社を個別に買収し、それを一つにまとめることで総合力と競争力のある新たな会社を生み出す方式。ジャパン・パーツは、日本の自動車製造の細部を担う町工場二十数社を買収して誕生させた自動車総合部品メーカー。故アランが生前からこつこつと買い集めてきた事業の集大成。

「ものづくりの原点を~」というくだりは、”鷲津@サムライ”らしい台詞ですが、”組織モノ”に弱い私としては、「経営を我々に委ねることで~」という指摘が、興味深い。
物語的には、「レッドゾーン」では、このジャパン・パーツが、買収されるんですよね・・・(う~ん、続きが楽しみ)。
そして、今までは、どちらかというと、大企業が多く登場していたのが、「レッドゾーン」では、町工場が出てくるので(芝野が手がける)、このへんの、組織規模・形態の違いが、楽しみです。

「(略)連中は特機部が獲れなかったら、その腹いせに御社を潰しにかかるかも知れません。」
「まさか、そんな子供じみた……」
芝野はそう言ったが、加地は険しい顔をしていた。
「芝野さん、そういうところ、昔と変わりませんね。ビジネスとは数字と道理だけで回っているなんて思っていませんか。ビジネスを動かしているのは、私情と欲望、そして怨恨です。アメリカには、女を取られた腹いせに相手の会社を乗っ取って話だってあるんです。アメリカという国はメンツが全てです。侮らない方がいい」
(『ハゲタカⅡ』下、p.116)


”情・私情”の側面を、アラン(謎の死をとげた)は、鷲津やリンに、散々、仕込まれていて、その含蓄あるやりとりも散見されるのですが。
物語的には、「レッドゾーン」に、やっぱり出てきたか、ゴールドバーグ・コールズ(GC)、と。”上海のホリエモン”の略歴に、GCがあったあたりから、怪しいと思ったんだよね。
・・・次は、そろそろ、UTB絡みで、いよいよ飯島さんの登場、かな?(ワクワク)。

と、まじめな話なんだか、お楽しみの話なんだか、わからなくなったあたりで、ひとまず。

<注>
1) 債権譲渡の話(から買収の話)をしに、太陽製菓のオーナー一族の”社宅”に鷲津と堀が訪問し、あまりのオーナー一族の企業の私物化に対して、頭から湯気を立てて怒っていた堀が鷲津に、次のように問いかける(『ハゲタカ』下,p.58~)。
「一体、今日の訪問の目的は何だったんです」
(中略)
「今日の一番の目的は、連中がどういう人間なのかを知ることでした。そういう意味では、収穫は大でした」
「しかし、連中は我々の条件なんぞ、きっとのまんよ」
「大丈夫です。それは最初から期待していませんでしたから」

以下、その”収穫”について、言及されるのですが。・・・面接技法のよいテキストになります。






2008年1月17日木曜日

ふむふむ、なるほど


”お楽しみ”を「満喫」しつつも(→1月10日)、帰りは、書店によって、商売道具を購入していたのですが、その時買った1冊が、実に面白い。

「はじめに」(序章部分)と、終章の終節、目次、他、本文は拾い読みしただけの段階で、思わず、「福祉理論フォーラム」1)(すみません、公開Webページは無いのです2))で取り上げてほしいとリクエストをしてしまった。だって、ソーシャルワークを専門としている方や、社会福祉の価値・固有性にずっとこだわっている方などの、見解が聞きたいのですもの。

読了もしてないうちに、何故、強力プッシュかというと、
どう考えても相反すると思われるソーシャルワーク理論が、乱立・並列で紹介されている状況が、どうにもこうにもよくわからず、もやもや感を抱えたまま社会福祉援助技術総論を担当しているワタクシですが、そこが、ちょっと(だけ?)解消・・・されそうな気がする、からです。
著者が同世代(これはこれでショックではあるが)というのも、読みやすい点なのかもしれないですね。


で、読了前ではあるのですが、忘れないうちに1点メモ。
やっぱ、見学実習で3分の1が欠席になっちゃう回の映像素材は、「レディバード・レディバード」で決まりだな。
イギリスの児童虐待とソーシャルワークの専門性との関連を述べた箇所で、改めて、「レディバード・レディバード」の背景が、とてもよくわかりました(時期的な照合は、ちと、必要だが)。
今年度は、時間の関係3)で、「ヨコハマメリー」(92分)にしてしまったのだが。悪くはなかった4)と思いたいが、学生さんの反応を見ていると、どうも、こう、表面上は起伏が少ないドキュメンタリーは、ちと、きびしかったかな、と(内容も、濃いっちゃ、濃いが)。
授業の展開上も、やはり「レディ~」の方が適切のように思われる。
・・・前に、山森亮5)さんに、「レディ~」を福祉の授業の最初に見せるという話を聞いて、それはどうかと思ったのだが(やはり、”最初”は、というか、1年生向けの授業では、いくら私でもできませんが)。
さて、どうするかな。

1) 「運営方針」の書類が埋もれてしまった(^^ゞ え~っと、都立大の小林(良二先生)ゼミの延長線上の研究会(と、私は認識している)。私が、研究上、最も畏れている人々が勢ぞろいしている(その割には、昔から・今も態度がでかいワタクシ・・・)。しかし、知的刺激にあふれた、とても楽しい研究会。同時に、その後の懇親会が恒例となっていて、そちらを(も)楽しみにしている人も多いという説もある(でも、たいてい、理論・研究上の話が果てしなく続く、おそろしい懇親会でもある)。
2) 小林ゼミの慣例で、論文等の草稿を検討するということも研究会の内容の一つであるため、発表前・直後の報告内容があり、著作権や研究者としての業績等の観点から、”公開”ページにはしていない(と、理解しています)。けして、門下生?以外ダメという閉鎖性からではない。
3) 「レディ~」は102分のため、昼休みが前後にないと、学生さんにちょっと気の毒。
4) 例えば、感動的なラスト、野暮かもしれませんが、老人福祉・高齢者福祉の歴史を感じます。
5) この方も同年代で、自分と比較してショックを受ける方ですが、ケン・ローチの映画のことを話すことができる数少ない人の一人。

2007年12月27日木曜日

読書の冬

今年も残すところ、あとわずか。
・・・ちっとも、そんな気がしませんが。
今年は、冬だというのに、ずいぶん天気が良くないですか?
今現在(12/27,11:30)、新潟(日本海側)の冬としては、ありえない晴天です。
アップは、まだ後、で、ちょろちょろメモ書き風に。
で、アップを忘れていました(^_^;
ということで、アップは12/28ですが、書いたのは12/27なので、日付も12/27に。

●ちょっとひきこもり気味なかわりに、最近、乱読状態。
 必要に迫られての文献確認以上には、ハードカバー系に手を伸ばす気力が
 わかなかった昨今からすれば、よい傾向といえるでしょう。
●ということで、歴史上の人物についての読み物がMyブーム。
 で、せっかく、読む気になった某書が、図書カードを持っていない
 市内の某大学に所蔵されていることが判明(すぐに借りられる図書館にはなし)。
 ・・・どうしたものかな。と、とたんに、気力が下降するのが困ったところ。
●ちなみに。週刊誌的関心でへぇ~だったのが、M.ウェーバー、
 (山口百恵)松田聖子・中森明菜。
 まぁ、この2冊を同列に並べるのは、いかがなものか、と思いますが。





 M.ウェーバーは、やっと読みとおしたJ.アダムズと並行して読んでいたので、
J.アダムズの社会福祉実践思想の研究―ソーシャルワークの源流
 家族背景、神経症的な面、宗教についてなど、妙に、共通するものがあるな、と。
(事態が同じではないですが、論述のキーとなっている”要素”がね)
 で、もう、ついでなので、リッチモンドを、と思ったのに、
 本が直ぐには借りられないじゃん!、というのが、前項です。
●専門雑誌のザッピングもしていると、さほど期待はしてなかったが、
 カバー領域からして見逃すわけにはいかんよな、という特集の中から、
 面白い論文を見つけると、とても、うれしくなる。
 (読んではみたけど、ケッというのも、結構あるので・・・)
 別の雑誌に掲載されていたアノ論文、ナナメ読みだったが、再読が必要かな。
●歴史モノにトドメをさすところで、『風雲児たち』12巻。
●そして、そのうち(アマゾン等で)買おうを思っていた、ある意味、歴史的著作、
 『母よ! 殺すな』。思ったより厚くて(元のはもっと薄かったような・・・)、
 こりゃ、書店で買っとこうかな、と。
 ジュンク堂・新潟店、複数冊、入っていました。し、渋い。






2007年12月2日日曜日

書物の力

この前の記事で、ネットの便利さに感嘆したばかりですが。

しかし、やっぱり、底力を発揮するのは、書籍なのである!!!
(ただし、良書、ね。手間暇かけず、出版される書籍もあるので。)
ここは、立場上(なんの立場か、よくわからんが)、強調しておかないと。
『生活時間』(1984)の序章「現代における家庭経営学的生活時間研究の意義」及び第1章「生活時間調査・研究の系譜と動向-生活時間分類を中心に-」と、『生活時間と生活福祉』(2005)の「編者あとがき」を合わせて読むと、私のような突貫工事の門外漢ですら、その研究蓄積に胸打たれるものがあるのだから、当該研究者グループ・サークルの方々にとっては、『生活時間と生活福祉』(までの)発行は感慨深いであろうし、「編者あとがき」は、おそらく、思わず、感極まって涙してしまうような文章だろうな、と敬意を払います。
といいつつ、本題の調査報告自体は、目的と問題関心が異なっていることもあって、精読するには(今のことろ)至りそうにないのですが。

とはいえ、かなり、知的刺激を受ける本です。
ここでは、調査設計-伊藤・大竹いうところの「典型調査法」について、若干。
と、つい、さっきまで読んでいたのに、え~っと、どこに書いてあったっけ?と、索引に助けられました。








そもそも、「生活時間調査」などという、べらぼうに手間暇かかる調査を5年おきに30年継続しているというだけでも、驚異の産物。私なんか、データ処理の段階から引き受けた(引き受けざるを得なかった)だけで、しかも、21世紀の文明の利器(統計ソフトや表計算ソフト)をもってしても、ねをあげているというのに。
興味深かったのは、いろいろありますが、ここでは、調査方法・手法について。
(生活時間分類に関する検討も、当時の研究状況への批判を、行間からの熱気も見えつつ、興味深いのですが、略。)
すなわち、著者らは、無作為サンプルを批判して、「典型調査法」を提唱し、その論拠を示したうえで、著者らの「生活時間調査」をその方法で実施している。
(合わせて、事例調査も行っており、こういった点は、トライアンギュレーションの優れた先行例と思います。トライアンギュレーションについては、下記、文献を参照。あ゛、『フィールドワーク』、新版、まだ手にしてないかも・・・)






著者らのいう、「典型」とは、「単なる平均的代表を意味するのではなく、あくまでも理論的に規定された対象の特徴を最も鮮明にあらわす対象のこと」(p.67)で、要するに、ウェーバー言うところの「理念型」のことだと思われます(福祉関係者の中には、M大家の論文を誤読して、「理念型」を「理想型」などと言って、誤解している向きが、しばしば、ありますが)。
乱暴に要約すると、”無批判な”ランダムサンプリングによる調査では、自分たちの知りたいことがわからない、と。自らの調査目的に沿った、そして、理論的作業を前提とした上で、調査対象を選ぶのだ、ということです。

この調査姿勢は、非常に、共感するのです。
福祉業界では、いわゆる質的調査を行う人たちの、量的調査への負い目というか何というか(反転して開き直りというか)が見受けられたり、一方、(私が理解不足なだけかもしれないが)無味乾燥な量的調査を量産するグループもあったり、で。
少数だろうが、大量調査だろうが、無意味な数の勝負は、あまり生産的とは思えない。
要は、調査目的と手法があっているかどうか、そして、調査設計が適切かどうか、そこが問題なのであって、単純なサンプル数の問題ではない(と、これだけ書くと、実に、あたり前・常識的な話なんですけどね)。
さらに最悪なのが、何がやりたいのか、意味不明の、行政調査ね(^^ゞ


手法の話だけしていても、しょうがないのですが、
しかし、”技”としての手法も、決して無視できないわけで。
データが豊富にありそうで、実のところ、何かをいうためには、まだまだ手法を洗練させる必要があると思われる、社会福祉の領域では、次のような、面白い企画の書籍が出ております。
特に、現場を経て、何かを言いたくなり、あるいは、実践を整理したくて、という方には参考になるのでは、と思います。

2007年11月15日木曜日

自主財源の確保

アフェリエイトで研究費?の確保を目論んでいるのですが。
あまり努力もしていないので、現実は、なかなか、できないものがありますなぁ。
息抜きブログの方に、ほんの少しばかり、アフェリエイトのお買い上げがあったのに・・・あっという間に、10月は0だったです(T_T)
・・・ま、何も、対策、打っていないですからね(^^ゞ
で、こちらのブログにも、アマゾン検索画面を貼ることにしました。
⇒右にあるサーチボックスから使って下さいませ。
 もちろん、ブログ記事に掲載しているものからもOK

社会的な寄付にアフェリを使う方々もおられますが(例えば、こちら)、
今のところ、自分には、その余裕がないので、個人的なこと、
つまり、このささやかなアフェリ収入は、圓山の研究費相当(書籍代や、交通費など)に充当されます。
どこか、ひいきのアフェリサイトがあれば、邪魔はいたしませんが、
普通に、アマゾンから買い物する場合は、このブログを経由していただけると、
私はとっても、助かります。どうぞよろしくお願いいたします。
ちなみに、アマゾンは、書籍、CD、DVD他、
使っているプリンターのトナーやインク、USBメモリーなども購入できますので、
何卒、よろしくお願い申し上げます<m(_ _)m>
※これだけ書くと、なんだか、がめつい人のようですが、
 例えば、カードのお買いものは、私は、DPIカードを使っていますから、
 無理のない範囲の寄与はしているのです、念のため。

障害学は、ザクザクと収穫が。

ここ1~2年ほど(いや、3年ほどか?)、障害学関係の出版が、充実しています。
9月に星加良司さんとシンポジウムで同席する前までに、著書を読んでおきたかったのですが、
(大阪まで、持参したものの・・・パラっと開いて終ってしまった・・・)
ようやっと読んだのが、前回10月の東京出張時。
いやぁ~、面白かったです。
それと、今、読みかけているのが、杉野先生の本。
星加さんの本については、めずらしく?、感想を書いていたので、載せておきます。





※ICF(国際生活機能分類)の能天気な説明を、しばしば、耳にしますが、杉野 昭博『障害学―理論形成と射程』は、 ICF(国際生活機能分類)への障害学からの批判や異同も、丁寧に扱っています。

星加良司,2007,『障害とは何か ディスアビリティの社会理論に向けて』,生活書院.
2007年10月29日(修正11月15日)

骨太で、論文構成がしっかりとしており、さらに―ここは特筆すべきと考えるが―その論文構成に破綻がない本(論文)を、久々に読ませてもらった。
さすが博士論文、と呼ぶべき内実をもっており、大学院生は、よき手本として検討すべき本である。
そして、障害学理論の、現時点での一つの到達点ではなかろうか。

この本は、自他共に認める理論書であるが、ご自身が設定したディスアビリティ理論に求められる性能に「解消可能性」(実践的な課題に対して貢献しうる理論になっているかどうか)を挙げているが、一読した感想では、かなり、イケると思う。
ただ、この直観が、もろ刃の剣かな、とも思えなくもない。
というのも、この本は、確かに理論書ではあるのだが、認識枠組みの提示といった意味合いが強く、また、それも、ディスアビリティを構成する不利益を複数の要素間の関係性としてとらえる視点を強調しているため、何か言っているようで言っていない危険性もある。もっとも、本の中では、論証をしたり、寓話なども用い、例示もあるので、読み手・応用する側の問題になるといえるが。

著者によれば、障害(ディスアビリティ)とは、次のように定義される。
<ディスアビリティとは、不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象である。>

※この定義の前段となっている<不利益>についても、周到な検討と定義がされているが、それはここでは割愛。

そして、<不利益の集中>について、「複合化」と「複層化」を指摘している。
たしかに、こう定義することで、「同定可能性要求」(障害者の経験する「問題」を他の「問題」から弁別された特徴的なものとして把握しうるかどうか)が、相当程度、満たされるように思う。
・・・と思う根拠の実例を出し始めると長くなるので、これも略。
ともかく、不利益の<集中>というのが、ポイント。

で。
個人的に最も印象的だったのが、第5章第2節の、「自己決定」をめぐる論考です。
初めて、読んで納得できる「自己決定」論に出会いました。
そう、そうなんだよ!、ということが随所に。
そして、ちょうど、先週(2007.10.26.)、自立生活センター・立川の理事会で、かなり話題になっていた”当事者主体”についてのことと、もろに重なる話が盛りだくさんで、正直、先行研究の論証等の理論・論理的手続きのところは、眠りかけながら読んでいなくもなかったのが(←不真面目)、いきなり目が覚めた!という感じです。

自分としては、理論書を読んでいるつもりだったので、最後の方にきて、まさに、あれこれ議題になっていた、現実の組織運営上の事項と、直接リンクする展開になったことが、自分が読んでいる状況を合わせて、非常に印象的だった。
これは、「使える理論書」であることを示していると思われる。
もちろん、使えるかどうか、これは、著者一人の課題のみならず、広く開かれた課題であると考えるので、そういった意味でも、大変、刺激的な良い本といえよう。
(ただし、学部レベルでは、難しくて、教材としては、そのままでは使えないだろうな・・・)

このように、研究者向きのみならず、障害分野で、日々、現場と格闘している方々にとっても、様々な示唆を与えてくれる本だと思う(分厚い本ですけどね)。
研究者業界ではない方々は、とりあえず、先行文献の検討のところは飛ばして読んで大丈夫である(と、思う)。その辺は、研究者業界のお作法のようなものだから(しかし、独善的な論理構成ではないことを示したり、従来の議論との関連を示すためにも、重要な手続きであるため、欠くことができない作業ではある)。
とはいえ、この本でも多く言及されている立岩真也さんの書いていることが、どうも、よくわかるようでわからん、と思っている人には、かなりわかりやすい整理がされているので、アンチョコとして活用可能かもしれない(もちろん、星加さんの論理展開に必要な文脈での整理なので、その辺は、取扱に注意が必要だが)。

2007年9月27日木曜日

現場・実践と研究

日本社会福祉学会と、その後の公開研究集会を通じて、つらつら考えたのは、
現場・実践と研究の関係、でした。
古くて新しい、というか、しつこく出てくる話題ですね。

私の感覚では、よく語られる、というか、前提としてある
現場・実践 - 研究
という図式は、ちょっと、違っているように思います。
実は、もうワンクッションあって、
現場・実践 - 研究1 -研究2
という図式・関係じゃないかな、と。
研究1と、研究2、どう言えばいいのか、すぐに思いつかないので、とりあえず、こうしておきますが。

研究1のレベルでは、現場・実践を言語化したり、調査したり、データ化したり、ということで、これはこれで、とっても、骨の折れる、時間と労力を必要とすることです。(←私が言うと、それなりの、説得力があると思いますが(^^ゞ )
よく言われることで、私もそう考えますが、福祉は、実践の学なので、この研究1は、欠くことのできない、とても大事な領域です。

しかし。
そのレベルでの”研究”と、ちゃんとした・しっかりとした”研究”(≒学問?)には、まだ溝があるというか、飛躍が必要で、研究2のレベルになるには、概念化(実体概念ではなく、分析概念での)などの、
論理一貫性のある論述が必要、と、思います。(その意味で、ある現実の詳細がそぎ落とされる面はある)

その意味で、学会シンポで、高山恵理子さんが報告していた、実践と研究は、異なった論理で展開している、という、挑発的な整理・提案(しかし、我ら同一の門下生の中では共有している前提)が、どのように受け止められたか、興味のあるところです。

福祉は、実践の学なので、堅実な研究1の蓄積がなければ、より深い研究2にはならないのだろうな、と思いますが。
・・・言うは易し、行うは難し、ですね。
だいたい、研究1のレベルでも、諸般の事情により、やっつけになること、多いですからね(←自戒もこめて)。
そんなことでは、いかんのだが。