書き出すと長くなりそうで,動けなくなりそうなのだが,自分へ言い聞かせるためにも,要点のみ記載しておく。
十年一昔とはよく言ったもので,また,一回り(干支=十二年)という区切りはよく出来たもので,前にもつぶやいたが,2つの学会(障害学会・日本社会福祉学会)を眺めていて,「なんだか,ぐるっと一回りしてきたなぁ」という印象をますます強く感じた。特に,社会福祉学会。
基本的に,私は,モノゴトはシンプルに考える方が良いと思っている。しかし,混線させてはいけない。
現実や,いわゆる”現場”が複雑で混沌としているのは,当然のことである。だからこそ,”分厚い”記述を目指すというのは,記録を残す意味でも否定はしないし,大事なことだと思う。
が,一方,現実は複雑で混沌としているからこそ,何かを見通すための”手がかり”や”柱”が必要。
スマートにいえば,”概念”であったり”分析枠組み”ということになる。
もちろん,これらの”手がかり”は,「何か」を見たい・知りたい・理解したいという特定の目的があって使うモノである以上,万能ではない。
ということを前置きとした上で。
改めて,「自立生活」や「当事者」という語が問われているなぁと。
実は,実際上の問題としても,ちょっとあって,う~む(ー"ー)・・・という事態があるのだが,学会でも,関連した報告がいくつかあるのを見ると,これはもう,しっかり考えろという天の声(?)かな,と。
なのだが。
実のところ,そんなに深刻に”考え”過ぎることがちょっと違っていて,”モノゴトはシンプルに”,基本に立ち戻ればいいんじゃないかい,と。
「自立生活」は,日本の障害者運動の文脈でも,輸入物に頼らずに使われてきた,と,認識しているが,輸入語としては,"Independent Living"である。「自立」ではなく「自律」だ,という議論は前からあるわけだが,単純素朴に考えれば,Independentって,”独立”だよなぁと。独立って,案外,良いのじゃないかい,と,最近,ふと思う。
また,「自律」とも関連して,「自己決定」もよく重視される語。なのだが。障害当事者が「自己決定」の旗を掲げるのは,そりゃそうだろうと納得だが,今のところ障害当事者ではない(たぶん)自分は,用語の定義としては,「自立生活」において「自己決定」を前面に出したことがない(ハズ)。代わりに必ず引用しているのは,次の文(他の人はそれほど重視しない印象を受ける)。
人の手助けを借りて15分で衣服を着、仕事に出かける等社会参加できる方が、自分で衣服を着るのに2時間かかるために家にいる他はない状態より自立した生活である。
思えば,この定義を読んで衝撃を受け,納得してから道を踏み外し・・・じゃなく(^^ゞ,飽きずに(ちょいと疲れることは,しばしばあるが)取り組むテーマと魅力的な多くの人達に巡り合えたことは,幸運というべきなのでしょう。
ちょっと話はズレたが。
「自己決定」は,とりわけ,現実・実践の場で重要であり,ややこしく悩ましいことであるのは,重々,承知している。しかし,概念を構成する要素として,どう扱うのかは,慎重であるべき。高橋修流に言えば,「施設や家族と暮らしていても,自分で決めているから『自立生活』なのよ,って,どうなのよ。味噌汁で顔洗って出直して来いって話よ」。
※記憶で書いているので正確な引用ではない。また,乱暴な言い方で,前後,注釈が必要な言い方なのだが,まぁ,ご容赦を。
そして,「当事者」。
上位概念として使う場合の「当事者」は,適用できるカテゴリー(?)・集団・人は,いろいろあっていい。
だが。
「○×の当事者」と,特定のコトについて述べる場合は,一義的に決まるものだと強調したい。シンプルに考えて良いのだが,混線・混同させてはイカン!のだ。
「英語で『当事者』とはどう言うのか」問題については,超苦手領域なので,どなたか,よろしく<m(_ _)m>
そうそう。”思いつき”のうちに,これも記しておきます。
今年度から始まった,社会福祉学会の特定課題セッション。その場を使って,「当事者をめぐって」とかなんとか,設定すると面白そうだと思いますが,どうでしょう。
・・・やはり,長くなってしまった。ここから先は,ちゃんと詰めて書かないといけないな・・・
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